COLUMN コラム

【自活研・小林理事長の自転車コラムその64】~街にもビデオ判定が必要な時代は悲しい~

生きていると理不尽なことに出逢う。
昔の人はそんなとき「袖すり合うも多生の縁」と達観して、許す知恵を捜した。
たくさんの人間が何度も輪廻転生を繰り返したあげくに、ほんの一瞬、出逢って縁を結ぶのだから、大切にしよう、ありがたいと思うことにしよう・・・と日本人らしいやさしさがにじみ出る言葉だ。
 出逢いたくない相手、巡り会いたくない出来事もある。こんな話を聞いた。
 自転車でルールを守って車道の左側を走っていた。突然、歩道から歩行者が飛び出してきて、避けることができず、衝突して双方が倒れた。横断歩道があったわけではないし、歩道側には柵もあったが、柵の切れ目から何を思ったか車道に出てきた。飛び出してきた理由は不明である。
 目撃者がいて一一〇番してくれて、救急車もやってきた。歩行者側は骨折したらしい。自転車側も怪我をしたが、直後は立つこともできた。歩道や路側帯で起きた事故ではない。クルマの通行量も決して少なくない車道での衝突である。ところが、警察官は自転車に乗っていた方を逮捕しようとしたという。もちろん、事情を説明し、非があるとしたら飛び出した側にあると抗議した結果、警察の斡旋で双方がそれぞれの責任と費用でそれぞれの治療を行うという示談で決着した。
 自転車でなくクルマだったら死亡事故になっていたかも知れないから、一部で話題になっている「当たり屋」ではないのだろうが、なぜ車道に出てきたのか、について警察が関心を持たず、自転車を加害者と決めつけたことには首を傾げざるを得ない。それだけ、自転車の走り方に悪いイメージが定着しているのかも知れない。
弁護士の友人に聞くと、携帯電話を見ながら自転車の前にわざと飛び出して、事故を起こさせ、賠償金をせしめる事件を耳にするという。世知辛い世の中になったものだ。
 ルールを守っていれば安全、という道路交通環境がないことも問題だが、どちらがルールを破ったのかを判定する手段がないことはもっと問題だ。多くの先進国では、街中に監視カメラが配置されていて、何かあるとその映像が証拠として採用される。監視カメラが存在するという表示が明確になっていて、抑止力を発揮させたい意図も感じられるが、日本の警察が設置しているカメラには存在を知らせる表示がない。つまり「隠しカメラ」なのである。
これでは証拠として裁判所に提出しても根拠が薄弱である。
 取り調べの可視化や、相撲やサッカー、野球などの判定にもカメラ画像が利用される時代である。
カメラがなければしかたがないが、実際には撮影されているのに証拠採用されない仕組みになっているのは、私たちの社会の非合理性を表しているのかも知れない。そろそろ考えるべき時期にきている。
【月刊サイクルビジネスより改訂して再掲】
 

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