COLUMN コラム

【自活研・小林理事長の自転車コラムその40】~大震災当時に書いた乱文を読み返してみた~

2011年3月11日の東日本大震災をめぐっては話題が山ほどあって。自転車どころではなかった。とはいえ立場上、耳にする情報のほとんどが自転車関係なので、2011年の当時、自転車がらみのメモを残しておいた。3年以上経って、喉元過ぎて忘れた熱さを、反省を込めて思い出すために再録させていただくことにしよう。あした、またグラッとくるかも知れない日本列島に住んでいるのだから・・・・。

【その1】お手本はどこだ!?
早起きは苦手だが、ときどき杉並区にあった事務所前を通る自転車の数を数えていた。
(2013年11月に目黒駅前に転居済み)
平日の朝7時から8時半まで通勤通学らしい人々を中心にさまざまな自転車が通る。
「らしい」と書いたのは、自転車利用者の目的を確かめることができないからだ。急いでいる人に声をかけて「どちらへなんのために自転車に乗っているんですか?」と聞きたいのはやまやまなのだが「ばかやろう!急いでるんだ」と怒鳴られるのは目に見えている。実は数年前、実際に四谷駅周辺でこれをやってヒンシュクを買った苦い思い出がある。

震災の前年、2010年11月の風の強い寒い朝は行き交う自転車は一時間で約100台とやや少ない感じだった。みんな走り慣れていて、車道通行割合が高かった。半数以上は車道を走っていた。ほんの数人が車道を逆走していたが、歩道を暴走する人はめったにいない。警察庁が「自転車安全利用五則」を打ち出してから3年以上経った時点だったが、「一、自転車は車道が原則、歩道は例外。二、車道は左側通行」がようやくひろまりつつあると、内心喜んでいた。

震災後、自転車は春めいて暖かくなったこともあって通り過ぎる自転車の数は一挙に数倍に増えた。以前は珍しかったが、子供用座席をつけたままのママチャリにまたがる背広姿のサラリーマン風が目立つようになった。例年以上にピカピカの新車が多い一方で、長い間使っていなかった自転車を引っ張りだしてきたらしく、さびだらけのあちこちから異音を発し、タイヤはパンク寸前、ブレーキがけたたましい金属音を奏でるわりには、うまく止まれない代物も走る。
数年来の自転車ブームにのって買い込んだらしい高級車を、通勤用に使い始めた人もいて、生半可な運転技量では扱えないレース仕様まがいの高性能車は、特に危なっかしくてとても見ていられない。
その多くが駅に向かう人込みであふれる歩道を爆走する。

自転車五則の「三、歩道は歩行者優先」はみごとに空文化してしまった。購入した際に販売店で基本的な注意を受けなかったとしたら、売る側の怠慢は責められるべきだ。
考えてみると「にわかツーキニスト」たちに安全教育を施すのは難しい。運転免許を持っていても複雑怪奇な道路交通法を正しく理解している人は皆無である。自転車が車両であるという認識も薄い。子どものころから歩道を通行する自転車を見て育っているから、いまさら車道など怖くて走れない。
しかし、東京などの大都市で車道を走る人が増え、恐る恐る走ってみると、段差がなくスピードも出る車道の快適さに気がつく。交差点での安全確認さえ怠らなければ、歩行者や自転車などの障害物だらけの歩道よりずっと安全である。にもかかわらず、車道を左側通行する初心者が少ないのは、身近に「お手本」がないからではないか。

自転車メッセンジャーは時に明らかな違反行為を見せる。典型例が右折信号を利用する直進だ。このやり方を書くと真似する輩が出てくるから説明しない。
また多くの自転車利用者が赤信号をすり抜けるし、都合のよい信号を勝手に選んで突き進む。悲しいことに赤信号でまじめに止まっていると邪魔者扱いされる。
ルールを知らないわけではない。大丈夫だと過信しているだけだ。
ルールやマナーを徹底させろという声は多いが、「五則」の三番目からしか実践しない白チャリの警察官を見ている人たちに法を説いても無駄なのではないか。にわかツーキニストの急増から、一番の弱者である歩行者を守るには、まず「隗より始めよ」である。

ロンドンの交通警察のバイシクル・ポリスは、歩道しか走らせてもらえない幼児たちの憧れの的だそうだ。乗っている自転車も制服もヘルメットもかっこいい。日本の警察は諸外国の半分くらいの人員で世界一平和な国を守っている。その優秀でまじめな姿勢に憧れる子どもたちをもっと増やすためにも、かっこいい自転車パトロールは効果的なのではないだろうか。

【その2】できることをやれない仕組み
地震直後、深夜から未明までかかって、とにもかくにも運行を開始した地下鉄や私鉄に対して、さっさと休業を宣言して駅舎のシャッターまで降ろしてしまったJRの経営陣は、東京電力首脳陣、政権党幹部と並んで、能無し・無責任のそしりを免れない。
二次災害を防ぐためとの大義名分は理解できるが、線路などを歩いて点検し、可能なところから小刻みに復旧していった他の鉄道事業者があることをどう説明するのか。どちらがより安全で責任ある対応であるかについては議論されるべきだ。
動かない街を歩きながら、阪神淡路の時に、社員総出で炊き出しをして握ったにぎりめしの数が、避難民全員にわたらないからと腐るまで留め置かれたことを思い出した。同じことが今回も起きているのかと心配したが、杞憂に終わったのだろうか。

東電の現場で、ろくな食事も寝床もないまま頑張っている人たちについての報道がようやく始まったころである。原発内での作業の際に携帯を義務づけられている被曝線量を計測する線量計が不足していて、約3割の作業員が持たずに従事していたことが報じられたのは、地震発生後26日目だった。津波で五千個もあった線量計のほとんどが壊れたという。想定外であることはわかるが、他の原発や米国、フランスの支援団、メーカーの在庫など、調達が不可能であったとはとうてい信じられない。つまりは、現場の状況は幹部には伝わらず、知らないのだから当然、対策もとられなかった、ということだ。もっと意地悪く考えれば、その何も知らない会社からの情報で政府は対策を考え、会見して国民に説明していたことになる。その状況は1ヶ月以上を経ても変わっていなかった。その証拠が、現場にレトルト食品しか届いていなかったという事実である。無知な人々が、福島県人を差別したり、福島ナンバーのクルマの入場を断るというバカげたことをやるのは、見えない脅威に対するヒステリックな恐怖心のなせるところだが、科学的な知見を持っているはずの東電職員が、暖かい弁当をせいぜい50km先に届けに行けないのはなぜだ。万一被爆したらクルマも人も出てこれない、ゴミも持ち出せない、特攻隊に志願する社員がいても万一の保障ができない、命じる上司は責任がとれない、政府が出した避難地域なので立ち入りがままならないなどなど、さまざまな理由と言い訳がある。毎日、新聞を斜めに見ている国民は、やはりそんなに危険な状況なのか、としか思わない。いや、そんなことも考えたくない、目をつぶっていたいという心境だろう。

【その3】自転車が貴重だった
東北・関東では震災後2週間で手頃な自転車は売り切れた。新学期を控えて、親や祖父母がお祝いの自転車を買ってやろうと店に出かけても、子どもが欲しがる自転車は払底している。被災地では、クルマも自転車も流され、鉄道のレールは曲がったままだ。学校から遠く離れた避難所で暮らす中高生は通学用自転車を切望している。放置され撤去された自転車を被災地に送る自治体も出てきて、各避難所に配備されたところもある。被災自治体がもらい受けて避難所に貸し出す形になっているので、不公平がないように人数割りで配分が決まる。絶対数が少ないのでどこでも足りない、使いたくても使えない。子どもが学校に乗っていってしまったら、買いものや連絡にも出かけられない。

自治体から派遣されて支援の指揮を執る職員は、他の避難所とのバランスを考慮して、住民の要望をそのまま本部には伝えない傾向があったという。平穏無事に秩序を維持することが第一で、不満や要望をなんでもかんでも取り次ぐのは無能との評価につながりかねないとでも思ったのだろうか。染みついた官僚主義はどんな場合でも根本原理だ。これを調整するはずの政治は、政治主導という無責任と、中途半端な地方主権と、折からの地方選挙で休眠状態である。

東北では小学校高学年から自転車通学を認めているところが少なくない。ただでさえ開始が遅れた新学期を迎えた子どもたちに何かしてやりたいと、避難所の大人たちは自分のことを後回しにして知り合いに連絡する。そのいくつかのメッセージが私のもとにも届いた。しかし、自治体の撤去自転車のなかには子ども用はほとんどない。成長した子どものお古で良ければとの申し出はあるが、どうやって集め、どのように運ぶかが問題だった。
もっと深刻だったのは、たとえば50人いる子どもたちに3台しか届かなければ、子どもたちの社会、いや避難所社会が不気味な崩壊を始めかねないという懸念だ。
荒れた路面も悩みの種だった。ガラスやコンクリートの破片、金属屑が散乱し、段差のできた道はパンクを頻発させる。パンク修理の経験者は高齢者に多いが、修理キットがすぐに払底した。地元の自転車店や支援に出向いた整備士さんたちは、工具や部品を提供している。堺市の商組合は樹脂を封入したノーパンクタイヤ車を送ったし、世界最大の自転車メーカーである台湾のジャイアントは、ごついタイヤのマウンテンタイプ千台に荷台をとりつけて送ったという。20年前の台湾大地震の経験が生きている。

流言飛語やデマゴーグを恐れるあまり、一次情報の発信と確認が遅くなっていた。地震や津波の直後、すべての通信網を失った現地で、連絡の担い手は、クルマやバイクが乗り越えられない瓦礫の山を担いで乗り越えて走り回った自転車だったのである。
暖かい寝床に感謝して眠ろう。起きたら自分にできることを一生懸命やろう。当面、自転車に乗ってガソリンを倹約し、被災地に回せるようにするくらいしかできないが・・・。

【季刊誌「PARKING TODAY(ライジング出版)」より改訂して掲載】
 

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